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交渉学研究

説得の心理作戦③ ―――相手のこの「話し方」に注意せよ!

立て板に水は危険信号。交渉の相手が「立て板に水を流すように」弁舌爽やかに、スラスラとこちらの利点を並べ立てるときというのは、何かあると思ってほぼ間違いない。

何かとは次の二つである。

①    こちらにとって不利なことを隠しているケース

②    現在相手が話していることがまったく嘘であるケース

心の底にやましいことがあると、それを避けて通りたいと思うのが人間である。触れなくてすむならば触れずにいたい。そう思うのはごく自然である。とくに、交渉において、それを言えば明らかに不利と思われることを、みずから進んで言うことは少ない。

しかし、相手にそれを聞かれれば、まったく知らぬ存ぜぬとも言えないので、なんとか相手に不利な点を聞かれないように画策をする。弁舌爽やかにしゃべりまくるのは、相手に不利な点を気づかれないようにする一つの方法である。これが①のケースである。

②のケースは、その程度ではもうすまない。隠しておきたいことが一つや二つではなく、どんな手を用いたって隠しようがない場合である。こうなると、 はじめからフィクションということになる。フィクションをつくろうとすると、たいてい、「できすぎた話」を綿密につくるという心理が働くものらしい。こう してできたフィクションを、立て板に水を流すようにスラスラと説明するのである。この場合、単に話がうますぎるだけでなく、ちょっとした質問に対してはあ まり考えたり、つまずいたりすることなしに、スラスラと答えが返ってくるのも特徴である。

交渉相手が、こちらの利点をあまりにも流暢にしゃべりまくるときは、「時間をおいて一人になって考える」、あるいは「第三者と話をする」ことが重要である。

交渉の場では、相手のよどみなくしゃべる口調に圧倒されて、冷静に考える態度を失っていることが多いからである。交渉の場を離れて、ゆっくりと疑問点を考え、徹底的に究明する姿勢を忘れなければ、そうそう相手の思惑通りにはいかないものである。

こういう場合、相手側も心得たもので、交渉も半ばを過ぎると、「実は、ここだけの話ですが、他社からも引き合いが来ていまして、そちらと契約をして もよいのですが、ほかならぬ御社のことですので、現在他社のほうはストップをかけている次第で…。そんなわけですから、結論は今日明日中にいただきたいの ですが」などと言って、考える暇を与えない。

「立て板に水」のうえに、結論を急がせるという二拍子そろえば、落とし穴があると疑ってかかったほうが安全といえよう。

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説得の心理作戦② ―――妥協したいときは相手との距離を…

妥協したいのなら、相手との距離を短くとれ。

大会堂で交渉当事者が互いにタテマエ論を討議し合っても、交渉は進展しない。互いの距離を縮めて話し合いをする。

文化人類学では人にはそれぞれ空間に自分の領域があるという。その自分の領域を侵すものは敵と見る。この原理を利用したのが鮎のトモ釣りである。自分の領域に入った鮎を排除しようと寄ってきたところを鉤にかけて釣るのが鮎のトモ釣りである。

人間にもこの自己領域感はあり、その大きさは文化によって異なるという。

したがって、交渉ではあまり離れたところでの交渉もだめだが、相手にあまりに接近するのも相手に不快感を与える。

両者の距離は五十センチ程度が好ましい。

外交交渉では二メートルも離れて、両陣営が互いに論戦を戦わせている。あれでは、妥協しにくく、交渉の儀式である。ウラでもっと密接した距離での根回し交渉が行われているはずである。

両者が対陣する座り方も問題である。

図①は形式的すぎる。図②のほうが形式ばらず、話は進展しやすい。図③はさらに、互いに話をしやすい。

説得の心理作戦2_図

若い男女がドライブをしている。男が運転し、女が助手席に座っている。二人とも同じ方向を向いて話をしている。話ははずんで、どこまでも行く。

恋を囁くにはたいへんよい座り方である。

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「根回し」によるリスク・シフト

しかし、ボトム・アップ方式は、それがコンセンサスを得るまで弐時間がかかる。翌年ペリーが現れた時、幕府側が公式にとった方式は、「ぶらかし策」といわれている、はなはだ頼りない引き伸ばし戦術である。ぬらりくらりと回答をごまかし、何とかペリーを退去させられないかという戦略なき交渉戦術である。が、相手のペリーは、典型的なタフ・ネゴシェーター(練達の交渉者)であった。

例の林韑が、当初の勢いはどこへやら「アメリカ人の言うとおりにするほかはございますまい」と正弘に伝えた時、正弘の肚は決まっていた。が、平和裡に相手の条件を飲むということを周囲の者達に、すぐには明らかにしなかった。まず「根まわし」である。内部交渉である。

根まわしの効果は、危険を集団に分散することによって、一人ではなかなか背負いきれない責任を耐えうる所にある。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な発想である。一種の危険移行(リスク・シフト)である。

正弘は、まず斉昭の諒承をとりつける。ところが斉昭は、林韑などの「交渉代理人」を呼びつけ「交易許すまじ、戦争もやむなし」というかねてからの持論をぶつける。が、正弘の対応はここでもそつがない。ひっそり林大学などを呼び、交渉を平和的にまとめ上げるよう説き、日米和親条約を結ばせたのである。もちろん、斉昭らは譲歩の幅が大きいといって猛烈に反対した。が、林韑の次の言葉に反論するものはいなかったという。

「今もし拒絶して開戦になれば、日本の沿岸は兵備もなく手をなく粉砕されるでしょう。敗戦してからの講和条件が、この程度の幅ですみましょうか」

第二次大戦での無条件降伏という苦い経験に照らし合わせてみて、幕末の日本の交渉者達の決断は、さほど判断を誤っていなかったと見てよいだろう。

神奈川条約の締結された年に、日本はイギリス、ロシアとも和親条約を結んだ。

日米和親条約成立により、安政三年七月二一日(一八五六年八月二一日)、米国総領事ハリスが米艦サン・ジャンシント号で下田に入港する。彼の目的は通商条約の締結であった。内外の政務に疲れた正弘は、同年一〇月一七日、堀田備中守正睦にその職をゆずった。そして安政四年六月一七日正弘は三九歳の若さで世を去った。

ハリスはその死を惜しみ「彼は欧米列強の力を充分に理解し、日本が鎖国政策を棄てなければならない時期に来ていたこと、鎖国政策を進めれば、戦争の悲惨にまきこまれることを知っていた」と評している。

「勝海舟も島津斉彬の推薦で抜擢され、正弘が力を入れた長崎の幕府海軍伝習所に赴いたのであった。この時、正弘は勝家の食客になっていた蘭学者の杉純道を招き、蘭書を通して、世界知識を学んでいる。そして、正弘はこの年、安政二年、九段下に洋学所を設けた。杉田成卿、箕作阮甫などの洋学者が教授に招かれ、その開講は同四年八月からで、蕃所調所と改称した」と、阿部正弘の子孫阿部正道氏は語っている。

これを見ても当期の幕府のリーダー達は、情報活動に相当力を入れていたことが分かる。また、的確な情報を持っていたことを知るのである。これが幕末における日本の危機を救ったのである。

「爵禄、百金を惜しんで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」(『孫子』用間篇)

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モラトリアム的解決案

ただ、その阿部正弘にとってみても、ペリーの外渉スタイルは手に余ったようである。強硬というのも、斉昭のように精神主義に傾くのではなく、すこぶる理詰めで、とりわけ武力を背景にする異邦人であった。

何よりも正弘は、ペリー艦隊の威容を誇るその姿を目のあたりに見て、これは武力でことを構えるのはとうてい不可能だと悟ったようである。

ペリーがいったん日本を去った後、正弘は広く大名の衆知を集め、対策を協議した。意見は現在のアンケート調査のような形で集められ、大名の答申書をぞくぞく集まってきた。幕府が従来の独裁制、「トップ・ダウン」の決断方式から「ボトム・アップ」の決断方式に切り替えた象徴的な出来事である。弱体化した幕府、しかもなりふりかまっているわけにはいかない。「喉もとすぎれば熱さを忘れる」の譬えどおり、いったんペリーが帰国した後、主要な大名たちの意見は、黒船が姿を初めて現した時のパニック状態を忘れ、おそろしく威勢がよかった。相手のいない所では、俄然強くなる日本人の特性であろう。「ペリー討つべし」という意見が、過半数を占めた。もっともハト派的な一橋慶喜、松平慶永らも強固派に変わっていた。しかし、正弘の本音は、とうてい今のままでは勝目がない、しばらく向こうの言うままになって、その間に力を蓄え、力がついて時点で決戦に移ろうという妥協案である。この手の決断を一時のばしするモラトリアム的発想は、日本人の心性によくなじむ。正弘は衆議を集めて、この方向に意見をまとめていった。

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「柔よく剛を制す」阿部正弘

なお、ペリーとの交渉に際しての首席委員は前述の林大学頭であったが、この背後の幕府の総指揮をとったのは阿部伊勢守正弘であった。彼は備後福山藩主で寺社奉行をつとめていたが、年齢わずか二五歳で老中となり、ペリー来日の一八五三年に、三四歳の若さで徳川幕府の老中首座(今の首相)の職についたのである。

正弘は、当初他の大名や幕府の高官達と同じく鎖国支持派であった。が、徐々に世界の大勢を見ながらそれに順応し、最後には鎖国の幕引き役として、ペリーとの交渉にあたるのである。彼の評価についてはすこぶる有能な宰相として見る見方と、一国の将としては無能な識見のない人物であったとする見方との双方がある。が、通常は、確かに欧米の宰相のように、果断な決断力や、先の先まで見通すヴィジョンを持った指揮者という点では物足りないかも知れないが、少なくとも他の幕末のリーダー達に比べれば一頭抜きんでた名宰相であったという評価に落ち着くようである(小西四郎『日本の歴史19‘開国と攘夷’』中央公論社)

いわゆる日本の伝統的タイプのリーダーであったようである。結果的に見れば、彼の立ちまわりは、それなりに交渉者として成功している。確かに譲歩の幅は大きかったが、少なくとも日本の植民地化という最悪の事態は避け得たのである。

正弘が老中首座となった時、開国を迫る外部の圧力もさることながら、幕府内部も永年の矛盾が深刻化し、「内部交渉」という面でも大変であった。たとえば、その一人が幕政に関して大いに発言力があった徳川斉昭(水戸中納言斉昭)である。水戸藩主は御三家の一人であり、昔から天下の副将軍といわれたくらいに重きをなす藩であった。その斉昭は、攘夷論者のまさに巨頭であった。その理論的支柱になったのが、藤田幽谷、東湖の親子や会沢正志斎といった水戸学の理論家たちである。その斉昭が、しばしば正弘の政策にくちばしをはさむのである。

弘化三年(一八四六)、ビッドルに率いられて米艦が浦賀に現れた時も、斉昭は正弘に「夷狄の要求はすべて拒否せよ」と迫っている。これに対し、正弘の側は、「今、異国船打ち払い令を発しても必勝を期することはできぬ。日本の小舟では巨大な外国軍艦を攻撃しようがない。何よりも敵艦が江戸近海でわが廻船を襲ったら、海路を絶たれて、江戸は食糧欠乏に陥るでしょう」と答えたと言う。癇癪持ちの幕府の大物斉昭に、これだけ物が言えるとは正弘もなかなかの人物である。阿部正弘は、「水越(水野忠邦)などとちがい、憤激などは致さざる性にて、申さば瓢(ひょうたん)にて鯰を押え候と申す風の人」と徳川斉昭は評しているが、この正弘の「柔よく剛を制す」の術中に斉昭自身はまってしまうのである。

阿部正弘自身は、どこでも評判がよく、彼のことを悪く言う人は周囲にあまりいなかったという。そのソフトな交渉スタイルが、幕末のようなすさんだ状況の中にあって、かえって功を奏したのだろう。

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鳥居耀蔵のカタストロフィー的譲歩

親書の手交後、ペリーはまもなく艦隊を率いて琉球そして広東へと立ち去ってゆき、翌年の四月か五月に、また日本に寄航すると述べた。

そして「四隻で戻ってくるのか」との日本側の問いに対して、「全艦を率いて帰ってくるつもりだ。これら四隻は艦隊の一部分に過ぎないから、次回は多分もっと多数の船を率いてくるだろう」と、最後にだめ押しの脅しをかけている。

一八五四年二月、ペリーは、軍艦七隻を率いて日本を再び訪れた。

そこでペリーは、浦賀は不完全で不便であるとし、もっと江戸に近い所に停泊する場所を求めたのである。幕府側は、黒船の砲弾の脅威を極力避けようとしたのだが、結局ペリーの強引さに押し切られてしまう。奉行香山栄左衛門は当時、艦隊が停泊していた場所の真向かいの横浜村に近い地点を提案した。この妥協も、ペリーがさらに艦隊を江戸に移すという威嚇行為に移るのではないかと、おっかなびっくりでの提案であった。

三月八日、日本全権委員会と協議に入ることになった。日本側の首席委員は渡辺華山を自殺に追い込んだ鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)の弟、林(はやし)韑(あきら)大学頭であった。西洋を憎み、蘭学者を徹底して追い詰めた、タカ派のオピニオン・リーダー、儒学者の総元締である。

「林大学頭が明らかに、首席委員であった。なぜならば、重要事項はことごとく彼にはかられた。威厳がある中で沈着な表情をしていた」と『ペリー遠征記』は言っている。

言うなれば、今の東京大学の学長以上の社会的地位の高い人物を、幕府としては代表に選んだのである。ペリーは前回同様、部署を離れられる全員に正装させて音楽隊と共に参列させた。日本人のように儀式好きな人民には、このような演出が重要であり、その精神的影響を心得ていたからである。

さらに彼はかなり脅しを聞かせるのである。もし、我意が通らなければ、我に戦の用意あり、近海に五〇隻の軍艦がおり、さらにカリフォルニアに五〇隻の軍艦が待機している。したがって、開戦になれば総勢百隻の艦隊が二十日以内に到着すると脅しをかける。また、戦争になったら君達は負ける。その時のために、白旗を二本持ち帰るようにと揺さぶりをかけたりしている。

幕府側は、開国の時期を何とか延ばす考えであったがペリーの態度が強硬で、武力行使も辞さない勢いに圧倒されてしまう。幕府はこれに応戦する意志はなく、林韑らに戦端を開くことにならぬよう細心の注意を払わせる。武力衝突にはならざるを得ない所まで来て、幕府はこの衝突を避けるために、自ら屈したのである。通商以外は全面的にペリーの要求を認め屈したのである。「高の知れた夷狄のごとき、我が鋭利なる日本刀をもってすれば一人で百人は切倒せる。」と豪語していた林韑などは、横浜でペリーを初めて見ると、当初の勢いはどこへやら、その堂々たる押し出しに圧倒され、「アメリカ人の言うことは最も千万。向こうの言う通りにしなかったら、えらいことになりましょう。東照大権現家康公が生まれ変わっておいでになられても、アメリカ人の言う通りにする他はござりますまい」と、うろたえているありさまである。

譲歩のパターン現在でも、日米交渉に見られるパターンの原型がここにある。日本は絶対に譲らないと明言する。ある程度頑張る。しかし、土壇場に来て一気に崩れてしまうのである。カタストロフィーが起こるのである。米国に良く見る譲歩の標準型と比べると図1のようになる。

勢いに乗ったペリーは、長崎を拒否し、下田と箱館の二港を開くことを希望した。幕府はこれにも応じた。そして、一八五四年三月三十一日(安政元年三月三日)、日米和親条約が調印された。これが世に言う神奈川条約である。吉田松陰が金子重輔とともに下田に停泊中のペリーの旗艦に乗り移り、アメリカに同行しようとして断られたのは四月二五日の夜であった。

ペリーの脅しの外交が効いて、フィルモア大統領の親書に盛られた内容に沿って日本は開国した。しかし、これも開国の序の小口で、さらに次のハリスが開国の仕上げをすべく来日するのである。

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大統領親書を手交する

さてペリーは、不測の事態に備え、測量隊に応接所の前の小湾の測量を命じた。早速、実測され、そこから射程以内まで艦隊を進めることができることが報告された。

奉行は、ペリーが本船の停泊している所からボードで来ることを想定していた。これに対し、それは提督としての威厳にふさわしくないから、応接所の近くまで艦隊を異動させたいと申し入れた。

アメリカ側は、臨戦体制下にある艦内の任務を遂行するために必要な人数だけ残し、それ以外の約三百名が提督と行動を共にしたのである。士官は正装し、水兵と陸戦隊は青と白の制服を着た。提督が上陸すると、先に上陸していた兵と士官達は二列に整列し、提督がその間を通り過ぎると、彼らは提督の後について応接所に向かって行進を開始した。威風堂々、脅しの演出力である。かくして、応接所で大統領の親書が手交される。

親書の要旨は次のようであった。

「アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアより日本皇帝陛下(将軍)に呈す。

私がペリー提督を日本に遣わした目的は、合衆国と日本との友好、相互通商を結ぶことを提案するためである。

合衆国の憲法及び法律は、他国民の宗教的または政治的事項に干渉することを禁じている。私は、陛下の国土の平安を乱すあらゆる行動を控えるよう、ペリー提督に申し付けている。アメリカ合衆国は豊かな国である。日本も豊である。両国がお互いに交易して共に利益を受けることは私の切望するところである。

貴政府が、中国とオランダ以外との外国貿易を禁じていることを私は知っている。しかし世界の状態が変化し、数多くの新政府が形成された。したがって、時勢に応じて新法を定めるのが賢明だと思う。

外国貿易を禁ずる古い法律を廃棄することに危惧を感じるならば、実験として五年または一〇年の年数を限るという方法もある。

近年、カリフォルニアから中国に行く米国の船舶が多くなっている。また、日本沿岸で捕鯨する場合も非常に多い。荒天の際に、帰国の沿岸で難破するアメリカ船舶も増えている。我が不幸な人民を親切に遇し、財産の保護をよろしくお願いしたい。

また、願わくは、我が汽船やその他の船舶が日本に停船して石炭、食糧及び水の供給を受けることを許されたい。私の強力な艦隊をもってペリー提督を派遣する唯一の目的は次の通りである。すなわち友好、通商、石炭と食糧都の供給及び我が難破民の保護である。」

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最小最大基準とポートフォリオ戦略

「最小最大基準」については前述したが、簡単に言えば、「コスト(損益)の最も小なる場合」に着目し、それを選択する決断の方法である。(利益に着目した場合、「最大最小基準」と呼ぶ。呼び方が違うだけで発想は同じ、コインの裏表である。)

これと反対なのが、最大最大基準である。つまり「利益の最も大なるケース」に着目し、それを選択する方法である。

前者は「石橋をたたいて渡る方式」、後者は「一発勝負のギャンブラー的決断方式」である。不確実性大の決断、かなり大きなリスクを伴う決断は、一般的に最小最大基準をとるのが賢明であるとされている。

ペリーの作戦は、相手の攻め方を一つに固定しない一種の「ポートフォリオ戦略」であた。ある決断をすれば、それが百パーセント成功するということは論理的ありえない。特にその決断が、非常に重い意味を持つような場合、あらかじめ失敗を極力回避できるような手だてを講じておく必要がある。これを「ポートフォリオ的発想」と呼ぶのである。

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日本の最も長い日

一八五三年七月二日早朝、ペリーはわずか四隻を率いて那覇を出発した。予定では一二隻の艦隊だったが、いつ残りの艦船が集まるか不明だった。当初の船の数よりかなりか図は少なくなってはいたが、遠征隊の目的をひどく損なうこともないだろうとペリーは判断したのである。

七月八日午後五時、艦隊は浦賀沖に投錨した。「日本の最も長い日」の始まりである。

日本側の防備船が旗艦サスクエハンナ横付けになる。その防備船には副奉行が乗っていた。しかし、ペリーは、この副奉行達の前には姿を現さなかった。「艦隊の司令長官は合衆国の最高位にあるものである。したがって自分が交渉する相手は浦賀の最高役人のみである」というのが、ペリー側の言分けである。この論理を楯に、ペリーは副奉行のサスクエハンナ号への上船を拒否した。属僚排除主義である。これに続けて、ペリーは米国大統領から将軍への親書を公式に手交したい旨を伝えさせたのである。これに答えて、日本側も条件をつけた。

交渉に臨んで相手が準備不足で、こちらが事前の準備がきちんとできている時は、即決にもっていくようにしたほうがいい。しかし、逆にこちらが押されている時は、いったん小休止をとることである。バレーボールの試合で、適当に作戦タイムをとり、流れを変えるのに似ている。「日本の法律によれば、対外交渉は長崎だけで行う。艦隊は一度長崎に行くように」というのが日本側の出した条件である。ところがペリーは「浦賀が江戸に近い港だからわざわざここに来た。断じて長崎には回航しない」と強い態度で答えたのである。

ペリーの方針は、日本政府に対しては断乎たる態度をとることであった。

日本到着以前に、ペリーは一切の公的関係において厳然と先の方針を実行しようと決心していた。それが自分の使命にとっても最善のものと確信していたのである。これまで同じ使命で日本を訪問した他の人達とは、まったく異なった方針をとることを決意していた。

この決意が賢明であったことは、その成果を見ればよいとペリーは後に言う。七月一二日江戸から回答が寄せられた。奉行香山栄左衛門が、通訳を連れてサスクエハンナ号に來艦し、艦長ブカーナンと奉行との交渉が始まったのである。

奉行「本来長崎が外国人からの書翰を受け取る場所であって、浦賀は適当な場所でない。したがって、担当の役人は交渉することは許されない。ただ親書を受け取るだけである」

ブカーナン「親書を受納するだけで結構である。彼は來艦するのか、それとも海岸で書翰を手交するのか」

奉行「來艦せず、陸上で受け取る」

というようなやり取りが交わされた。

親書手交の日は七月十四日であった。日本側の代表は戸田伊豆守であった。

ペリーは、いかなる目論見があるかどうか知ることができなかったから、あらゆる不慮の事件に対してできる限りの用意をすることに決心した。「最小最大基準」の行動である。

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巧みに演出された脅し

ペリーの遠征隊は、ケープタウン、シンガポール、香港、マカオ、上海を経由し日本に来ている。日本への最初の寄港地は琉球であった。

ペリーは日本開国ができない場合は琉球を占拠する計画を持っていた。彼によると、当時、英仏露が琉球占有を考えていたために、一足早く、アメリカが琉球を占拠し、他の列強との力関係を有利に運ぼうとしたのである。そのためもあったのだろう。ペリーが神奈川条約を締結するまでに彼らは四回も琉球を訪れている。

ペリーはなかなかのハッタリ屋であった。第一回の琉球訪問にもそれがあらわれている。琉球の高官達が、旗艦サクエハンナ号を訪ねたことがある。

ペリーの目に映ったこの高官達は、なかなか落着きがあり、威厳さえ感じられた。ただ、艦内を見物して、置かれてあった蒸気機関を見た時は驚きの表情を隠さなかった、とペリーは言う。恐らくこの蒸気機関というのも、交渉の相手を脅かし、精神的に優位に立とうとする「小道具」の一つであったろう。ペリーは続けて言う。

「彼らは中国人よりもはるかに理解が早く、態度も心地よく、服装もずっと小ぎれいであった。」

ただ、ここでおもしろいのは、高官達が上船した時も、ペリーは一人自分の船室に閉じこもって彼らを出迎えようともしなかったことである。

ペリーは、自分が相手からどう見られているかを良く心得ていた。彼ら来訪者達が提督の面前に案内された時、大気を震わす軍楽隊の吹奏が始まったのである。高官達は、今まで聞いたこともない音楽、恐ろしく威勢のいい音とリズムに圧倒されたことだろう。

この会見の後、日本側の高官達の来訪に対する答礼として、ペリー側が琉球王宮に表敬訪問することを申し入れた。高官側は、その申し入れをどう処理していいものか額を寄せて知恵を出し合っていたが、ペリーは必ず自分は会うといって強硬に押し切ってしまったのである。ペリーの演出力は充分功を奏して見事である。軍楽隊の吹奏楽に飛び上がり、見せられた蒸気に目を丸くしたりしたあたりで、すでに「落着きのある、威厳さえ感じられる……中国人よりはるかに理解の早い」高官達も、ペリーの術中にはまっていたのである。

王宮への表敬訪問を、相手の返事も聞かないうちに押し切った所に、ペリーの押しの強さが躍如としている。

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